沼田では山車のことを「まんど」と呼ぶが、形態から見て正しくは「山車」であり、なぜそのように呼ぶかは定かではないが、昭和村森下方面には一本の柱の上に人形を飾り担ぎ歩く「まんど」があり、また渋川には波万灯屋台なる山車の前身とも思えるものの写真に残されていおり、沼田では長い歴史の中で形態は山車に変貌しながらも、昔の名前だけが残ったのではと推測されている。その昔、沼田では[まんどう」が、神輿と共に城中にまで人ったと言われているが、この「まんどう」とはどんなもので、どんなお囃子がついていたかはわからない。萩原進氏著「郷土芸能と行事」に「前橋では天保12年の祭典に18町より屋台を繰り廻し、踊り屋台(狂言、歌舞伎)操人形、子供踊、粧り物(山車人形)不二龍出し物、善尽くし、美尽くしなど目を驚かす計りなり、と富士見村時沢の奈良右衛門という人が書いている。」とある。この中に出てくる踊り屋台は、後年、沼田の材木町が譲り受けるところとなり、現在の材木町の山車の彫刻はこの時の物であると言われている。また、「渋川の祇園と郷土芸能」には「江戸時代末期から明治時代の初期のねり物(屋台)は水神信仰、五穀豊穣、無病息災、商売繁盛などの祈願を趣旨として各町の頭や若者達が数日を費やして組み立て飾り付けなどをし、人形は沼田方面から借りる町内もあり又自製の考案などがあったが、波万灯屋台で四周に百個余りの提灯を枠入れした」「上之町(渋川)では既に明治十二年に記録されてあるごとく真光寺の借地に屋台小屋があり、沼田の人形師、師星又司と言う人から借り受けている「忠信」と記されて・・・」とあり、当時「まんどう」「屋台」は同じようなもので、前橋にも渋川にも「山車」の名前は見受けられない。また、沼田の祇園が渋川のそれに大きな影響をりえていたことが図り知れる。山車の形態については、明治の頃の山車は真ん中に太い柱を立て、その上に高欄をのせて、その上に張りぼての岩をしつらえ、波玉を突き刺し、一番上に人形を配した。そして、その前後に日除けをつけ、その両側に麻をたらし「のし」とし、囃子方や町内の子供達が柱のまわりに乗り込んだ。電信や電気が通じ電線が張りめぐされると、背の高い山車は不都合となり、人形が上下するせり上げがつけられ、その後、次第に四本柱に屋根をつけその上に人形を配するような形に変化し、昭和初期には道路事情や山車の曳き手不足等でトラックを利用した、いわゆる自動車まんどなるものも出現した。沼田の山車は比較的に簡易なものが多かったため、一時期の衰退に拍車をかけることとなり、反面復活には大きな財政負担を伴い、また、まわりが坂という地形からも限定されて地域でしか山車は作られなかった。現在、使用されている山車は、そのほとんどが昭和48年からず平成6年のあいだに新造されたものである。