上之町に残されている祭典録には明治18年より沼田の祇園祭、特に上之町の祭典執行の様子が克明に記録されている。祭典録にある通り、明治時代より山車を曳き出しており、お囃子もそれに合わせて演奏され古くは前橋近郊より笛吹きを依頼した。 上之町では他地域や他町に笛吹きを依存し、町内には笛を吹く人が居らず、昭和40年代にはテープレコーダーを使用していた。しかし須田清七氏が祭吉連の創設と共に笛を習得し笛朋連や少年笛錬会を組織し、一般から青少年へとその和を広げ、上之町を始め他町にも広め、今日の保存会の礎をなした。上之町の祭礼の変遷や、山車の出現は定かではないが、沼田で最も古くから曳き出されたものの一つである。 大正の末期には渋川の南町より山車を買い受け昭和37年まで使用したが痛みが激しく、また祭礼の衰退期にもあたり、再建することなくトラックのシャーシーを使って細々と祭礼を実施していた。昭和45年に町内若手有志により、祇園祭の復興を願い祭吉連が結成され徐々に祭礼が盛り上がっていき、また故郷指向の波にものり、昭和50年ついに新しい山車の建造を決定し翌々年の昭和52年に2千万円の巨費を投じて立派に完成した。 この山車は昭和59年 60年に東京銀座で行われた「大銀座祭・音と光のパレード」に出演した。上之町のお囃子指導は祭吉連と共に若き女性たちがあたり、祭典 においてはご意見番的立場の祭吉のんき連をはじめとして全戸の参加要請のもと全町、全区民あげて行われている。